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路上観察学会小倉支部 a File of the ROJOH KANSATSU

支部長機関車が再び始動

 西都城から4.3㎞離れた今町に到着しました。前回のブログででもお話ししたように。1963年に交換設備を撤去したため列車交換(列車の行き違い)が出来なくなりました。そのため普通列車しか停車しない小さなローカル線になっていました。当然、給炭・給水の設備もありません。支部長機関車も給炭と給水が必要になってきました。ところが線路跡を歩いていると、お店も自動販売機も全く見かけません。廃線跡を歩くときは熱中症予防のために、最低でも水筒と帽子は持ち歩くべきでしょう。支部長機関車は、しばらくレール跡から離れて並行して走っている国道269号線でコンビニでも探して給炭と給水をしたいと思います。では、今町駅を出発!!

上り線一里塚

 セブンイレブンがありましたここでひとまず、給炭と給水をしましょう。国道沿線にはナフコやタイヤ屋さんなどどこでも見かける郊外の沿道風景です。そこにドーンと巨木と土盛が見えます。案内がありましたので見てみると、「国指定史跡」「今町一里塚」というところらしいのです。支部長機関車が歩いている国道269号線は江戸時代は「今町街道」とよばれ、都城・末吉・松山・志布志を結ぶ街道だったそうです。昭和の初めごろは緑の松並木が続く美しい街道が光景であったそうですが、道路拡幅等で今は見る影もありません。
 この街道は江戸時代には、幕府巡検使の一行が薩摩藩から飫肥藩へ向かう通り道にもなってい居たようです。石造りの一里塚塚はいろんな所で見たことがありますが、こんな立派な一里塚は初めて見ました。
 ここから線路跡に戻ろうかと思いましたが、このまま今町街道をぶらぶら歩いて街道と志布志線との踏切跡から線路に戻りたいと思います。しばし脱線!!

国道と並行に走るサイクリング道路へ

 志布志線跡はここで269号線の東側から西側に道路を横切ります。その先も舗装された遊歩道があります。ここから先は、しばらくは269号線と並行して走ります。その先は、これまでの畑の中という感じから雑木林の中という感じです。

宮崎・鹿児島県境

 いよいよ県境です。ここからこの志布志線跡の遊歩道も鹿児島県曾於市の管理となります。この辺からだらだらとした下りが始まりました。

制御区間

 このだらだら坂のせいでしょうか、制御区間の標柱がありました。反対に上りの機関車はかなりあえぎながら登ってきたことでしょう。盆地のまちにに来る前は、盆地のまちは平らでアップダウンなんてほとんど無いと思ていますが、河岸段丘と言うそうですが結構アップダウンが激しいのにびっくりです。

踏切跡

 やはりここでも支部長機関車よりも、自動車が優先ですので踏切前で機関車は一旦停止です。この先は下りながらゆっくりと右にカーブしています。踏切を超えて切通をどんどん下ってきています。切通の上にはサンテグレという飼料工場があります。

曽於市マンホール

 線路跡なのにマンホールがあります。すでに道路扱いなのでしょう。マンホールの蓋には末吉町と合併前の町名が書かれていますので2005年の財部町・大隅町との3町合併より以前に設置されたもののようです。

鶏舎

 切通を過ぎると、左側にもう使ってないのでしょうかかなり古い鶏舎です。この先の橋を過ぎると間もなく末吉の駅です。西都城~今町の区間は登りが多かったのでかした下り坂でしたのでかなり楽でした。

広い構内
 
 小さな橋過ぎるとこれまで走ってきた単線の遊歩道から、片側1車線+歩道の一般道路に変ってしまします。まもなく末吉駅です。右手生垣の奥にナンチクの巨大な食肉処理工場があります、支部長の事務所は国道10号線のすぐ横にあるのですが、よく黒牛くんや豚さん・ニワトリさんが沢山トラックで運ばれていきます。きっとここに連れていかれているののかもしれませんね。

末吉駅

 末吉駅に到着しました、西都城駅から8.3㎞支部長機関車これが限界かもしれません。手前に置いてある赤くさび止め塗料が塗られた車輪は、気動車(ディーゼル機関車)の駆動輪だと思います。ディーゼル機関車の動力はもちろんディーゼルエンジンですが、ディーゼルエンジンで作られた動力はプロペラシャフトでこの駆動輪が付いている台車に送られます。ディーゼルエンジンの回転方向と駆動輪の回転方向が違いますので台車に取り付けた逆転機で回転方向を変えてこの車輪を動かします。

末吉鉄道記念館

 廃線前は有人駅で相対式ホーム2面2線と側線1本があり交代可能駅で急行大隅も停車していました。1971年までは貨物の取り扱いもありましたので側線は貨物用だったのかもしれません。
 廃線時は鉄筋コンクリート造だったようですが、廃線後に末吉鉄道記念館として立て替えたようです。早速中に入って見学してみましょう。

展示物

 鉄道員の制服や帽子・ヘルメット等の鉄道員が身に着けるものから、タッチングマシーン(硬券を窓口で売る場合に日付を入れる機械)・鉄道電話・列車無線などが展示されています。ただ、制服を着ているマネキンがすべて女性のマネキンなのでしぐさが何か艶めかしいのが気になる点です。メード喫茶に対抗して、かわいい女の子が、昔の食堂車を模した部屋で、旧国鉄の制服でコスプレして指差呼称で安全確認しながらお茶を運んでくる「国鉄喫茶」たあったら支部長はちょっと行ってみたい気もしますが、鉄ちゃん達には受けたりして。

吉松駅時刻表

 時の流れと言ってしまえばそれだけの話ですが、この末吉駅の時刻表にある接続列車の数を見て無残に都市間交通を切られていった歴史が垣間見られて涙が出そうでした。
 今、福岡や北九州に公共交通機関で行こうと思えば、都城北高速バス停まで行って高速バスのフェニックスを使うか、B&Sで新八代まで高速バスで行ってて九州新幹線で博多に出る、もしくは鹿児島中央まで特急きりしまで行って九州新幹線で博多、または宮崎市まで出て飛行機かJRの特急にちりんか、あとは自動車でで高速道路を利用する方法です。
 廃線時の末吉駅の志布志線廃線時の時刻表を見てみましょう、各駅での連絡列車まで書かれています。まず目につくのは日豊線の特急にちりんがの一部が西鹿児島始発であったことです。東九州軸は鹿児島本線で西九州軸は日豊本線でという政策でしたが、鹿児島本線は八代から西鹿児島までが単線区間でしたし、日豊線も大分から西鹿児島までが単線区間というネックがありました。志布志線廃止当時は、新大阪駅行きのブルートレイン「彗星」が都城駅始発でまだ走っていたようです。西鹿児島駅始発の「にちりん」も健在ですし、吉都線・肥薩線・鹿児島本線経由の急行「えびの」も活躍していたようです。今は、夜行列車はほとんどありませんが、急行「日南」も支部長の住んでいたまちと結んでいたんですね。今もしあれば絶対に乗っていたと思います。

手動転轍機

 記念館はこれくらいにして、外の方を観察してみましょう。手動転轍機が展示されています。駅の構内のポイント使われていたのでしょうか。この他には、踏切の警報機なんかが展示されて得います。なんだか不思議なものがこの奥にありました。

手洗い場

 普通の手洗い場のように見えますが、これがとんでもない代物なんですよ。何がとんでもないかというとこの反対側に回ると理解できます。

手洗い場2

 これはどう見ても昔の男子用の小便用トイレの形に、見えるのは、支部長だけでしょうか。ちゃんと蛇口が2か所が上部についているのが写真で確認できると思います、とても不思議です。しかし何を洗うために作ったのでしょうか、足洗い場にしては蛇口が上すぎるし、ゴボウでも洗うのでしょうか❓

行幸記念碑

 記念館前には天皇陛下の昭和の行幸の碑があります。昭和天皇は、戦後ももなく「人間宣言」をされその後、昭和21年から29年まで8年をかけて、全国の戦災地や工場・炭鉱・学校・農家などを訪ねる、ご行幸をされました、ここ末吉にも昭和24年に行幸されて様です。興味を引かれたのは、片倉製糸の鹿児島事業所に行かれたことです。片倉製糸といえば、世界文化遺産になった富岡製糸場が有名ですが、ここにその事業所があったことは驚きです。

待合室模型

 プラットホームは撤去されているようですが、待合室を模した東屋があります。バス停は、別の所にありますから、あまり人が来ないのでしょうか、草ぼうぼうの状態です。

待合室の看板

 写真では醜いのですが、「都城・鹿児島行きのりば」となっています。以前は駅舎側が1番線ホームで、志布志行き下り線、そしてこの写真の場所が2番線上り線ホームだったのでしょう。この待合室の骨組みは、古レールを再利用しています。古い駅では、ホームの屋根の骨組みや柵に古レールの再利用が行われています。古レール好きにとってはここから珍しいレールを探すのは大きな楽しみです。さっそく観察してみましょう。

古レール

 在りました、屋根の骨組みの1本に珍しいレールがあしました。「KRUPP 1902  XⅡ KTK」の刻印の古レールです。このレールはドイツのエッセン州にあったクルップ製鉄所で1902年に製造された60ポンドレールで、当時の九州鉄道株式会社が輸入したものです。
 このレールを輸入した、九州鉄道株式会社は、1887年(明治20年)に九州初の鉄道会社として設立されました。1989年(明治22年)に九州初の鉄道として博多 ~ 千歳川仮停車場(筑後川の博多側手前)を開通させ、その後1891年(明治24年)4月に博多 ~ 門司駅(現在の門司港駅)まで東進、7月には熊本まで南進その後1896年に八代まで延伸させ現在の鹿児島本線の基礎を作りました。
 また、現在の長崎本線・日豊線・筑豊線のルーツも九州鉄道によるもので、現在ある九州の鉄道路線の基盤を築いた会社でした。しかし、1906年に(明治39年)に公布された鉄道国有法により翌1907年(明治40年)に国に買収され国有化しました。
 一方、志布志線は1923年(大正23年)に鉄道省によって、都城 ~ 末吉間を志布志線として開業した。その後、1925年(大正14年)にかけて末吉 ~ 大隅松山・大隅松山 ~ 志布志と延伸を続け志布志線が完成した。1932年(昭和7年)に都城 ~西都城間が日豊線に編入され、西都城 ~ 志布志間が志布志線となった。
 では、鉄道省が建設した志布志線になぜ九州鉄道株式会社が輸入したレールが末吉駅にあるのでしょうか?レールしばしば転用されることがあります。現在では鹿児島本線等の列車の運行本数が多い路線や貨物列車などの重量物が走ること路線では50kg/m・60kg/mのレールが使われていますが、そのレールでも列車の運行本数が少ない路線では十分使用可能なので、検査をして再使用することがあります。志布志線が出来た当時の筑豊地区では石炭の増炭が著しかったので石炭列車の運行本数が増えてて来たために、30kg./mから37kg/mや50kg/mに変えた時に30㎏/mが余ってきたのかもしれません。また、鹿児島本線の小倉 ~ 大蔵 ~ 黒崎間は、九州鉄道が敷設した時は、現在の路線より少し南側を走っていました。しかしその後、1908年(明治41年)に現在の鹿児島線のルートに複線化を行い小倉 ~ 戸畑 ~ 八幡 ~ 黒崎を本線に編入し、小倉 ~ 大蔵 ~ 黒崎間は大蔵線はは本線から切り離された。また、並行して九州電気軌道(のちの西鉄北九州線、1992年(平成4年)廃止)が開通したために大蔵線は1911年(明治44年)僅か20年で廃止になりました。もしかしたらここのレールを転用したのかもしれません。
 何故そう思うかと言われると理由ははっきりしませんが、大蔵線は今は市道になっていますが支部長が生まれたところのすぐ近くでいつも遊んでいたところだからです。もしそうだったらロマンがあるなあと思ったからです。
 でも何時か、きれいにしてもらって記念館の室内に入れて欲しいものです。

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