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路上観察学会小倉支部 a File of the ROJOH KANSATSU

支部長、汽車になる 志布志線(西都城 ~ 今町 4.3㎞)

  (^^♪  汽車 汽車 シュポ シュポ  ♫
 小倉にいた時も高浜から小倉港までの引き込線や、日豊本線から旧小倉陸軍工廠に引き込み線「原町緑道」などを汽車ごっこしながら歩いたいたものです。あの頃つるんでいたN大学のY先生も廃線フェチだったなぁ~。
 鉄道跡はカーブや勾配などが道路と違いとても興味深い物件です。今回は西都城駅から何度かに分けて志布志線の跡を観察してみようと思います。まずは今回は、西都城から今町まで観察をすることにしました。

路線図

 この路線図でもわかるように志布志は現在、日南線の終着点でありますが、1987年に志布志線・大隅線が廃止されるまでは、3つの路線が交わる鉄道の要衝でもありました。しかし、この2線は乗降客数が2,000人/日未満の路線であったため第2次特定交通路線に指定され大隅線は1987年3月14日、その2週間後の28日に志布志線は廃止されてしまいました。
 この年の4月1日にJRが発足し日本国有鉄道の分割民営化が行われますので、志布志線が国鉄最後の廃止路線かと思いましたが、残念ながら志布志線廃止の2日後の3月30日廃止の羽幌線(北海道)が国鉄時代最後の廃止路線となりました。
志布志線の終着点である、志布志は港町でもあり、江戸時代から島津藩の米の積出港として利用され、また奄美・琉球からの砂糖や、清から琉球を経由した密輸入品の受け入れ港として大いに栄えていましたが、明治以降は大型船が岸壁に直接着岸できないことから寂れていきました。しかし、明治後期から港湾改修が実施されと共に大隅線・志布志線・日南線が開通し、志布志地区は大隅半島地区の交通の要衝として栄えてきました。

西都城駅

 早速、起点駅の西都城駅から観察を始めましょう。さあホームに上って観察を始めましょう、駅の構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線の高架駅で駅舎は高架下にあります。以前は、キオスク・待合室・立ち食いうどん店があったそうですが現在はありません。駅員さんも6:30~20:00までしか勤務していなくそれ以外の時間は無人駅扱いです。駅舎の入り口の扉の鍵の開け閉めは、隣接する宮崎交通のバス営業所に委託しているそうです。
 まずは、志布志線のホームと思われる1番線ホームに上がってみました。

一番線ホーム

 ホームの南端に行ってみました、待避線の跡のようなポイントや、何となく日豊線と志布志線の分岐が感じさせられます。ちょっと不思議だったのは、ホームの端の部分まではスラブ軌道(コンクリートの床の上に軌道スラブという工場製作のPC版を置いて線路を敷設する軌道)ですが、それから先はバラスト軌道(路盤の上に砕石や砂利などのバラストを敷き、バラストの上部に枕木を並べてその上にレールを敷設する軌道)になっています。
 これは高架の終点に近いのと、線路の分岐が多くなるので調整のしやすいバラスト軌道にしたのかもしれません。
 また、1番ホームの窓からはこんなものが見えます。

旧市民会館


 駅の東側にある旧都城市民会館がみることができます。この建物は「メタボリズム」の先導者の一人である菊竹清訓氏の設計で1966年(昭和41年)に竣工した建物です。支部長は勉強不足でこの建物のことを知ったのは、2005年に日経アーキテクチャーで連載が始まった「昭和のモダン建築巡礼」というコナーでした。この第1回目の連載がこの建物だったのです、このコーなーは建築ライターの磯達雄氏が一般の人にも分かる言葉で、その魅力とウンチク、関連する雑学と宮沢洋氏のイラストでとても面白い企画でした。現在、「昭和モダン建築巡礼」(東日本編)(西日本編)で再編集されて出版されていますので一度ご覧にいただければ幸いです。磯達雄氏はこの建物に「アギラ」と命名したように記憶しています。「アギラ」はウルトラセブンに出てくる怪獣で、頭の後ろの方が確かにここの屋根に似ているような気もしますが。余談です「アギラ」の名前は円谷プロの円谷英二氏の三男の粲(あきら 元円谷プロ副社長)氏から採ったと言われています。閑話休題!

石倉

 石倉も見えます、駅の近くにはこのほかにも米穀倉庫や飼料倉庫が数棟かあります。これらは貨物取り扱いがあった時代の産物かもしれません、貨物取り扱いも廃線に先立ち1976年に廃止されてしまいました。

二番線ホーム

 1番線ホームからよくわからなかったので、今度は2番線ホームから志布志線の分岐地点を見てみました。今度ははっきりと分岐地点と、待避線跡をよく見ることが出来ました。一番左側の線の先は何かでふさいでいるようです。これから早速、高架の分岐部分まで行ってみましょう。

高架分岐 2

 奥の黒い家の手前で志布志線の高架はプッツリと切れています。

高架切れ目

  先ほどの黒い家の方から高架跡を見てみました。JR九州発足時に高架跡は国鉄清算国鉄清算事業団に移して、住宅地として分譲したのでしょう。ここから先の高架は完成後8年足らずで解体してしまったのでしょうか。高架の跡は全く見ることはできません。
高架後の先端はコンクリートブロックで閉塞されているようです。黒い家からの高架側の眺望はすごく悪いかもしれませんね。

市道交差部

 高架部分の最終の地点です、ここからは萩原川の橋梁へ向かうために市道と交差します。市道の両側の擁壁に一部出っ張りがあります。右に民家側の出っ張り部部には最後の高架の橋脚があったのではないかと思います。左の萩原川の堤防部分の出っ張りは、たぶん橋台(アバット)があったのかもしれません。

橋梁 1

 右岸側の堤頂部から末吉に向かって、6,100m区間は「鉄道公園」「志布志線ウエルネスロード」(自転車・歩行者専用道路)として整備されています)。
 橋の上に敷設されていたレールもすっかり撤去され、アスファルト舗装の道路になっています。鉄道が走っていた時代には、もちろん手摺もなかったでしょうし、枕木の間に足場板程度は付いていたかもしれませんが、橋の上からは川面が見える状態だったことと思います。
 橋は公園に変ったときに高千穂橋と名付けられたようです。

橋梁銘板

 橋梁の銘板が見つかりましたので観察してみましょう。橋の名称は「萩原川橋りょう」、設計者「鹿児島鉄道管理局」、施工者「九州鋼弦コンクリート」、着工昭和34年11に1日、竣工昭和35年2月29日となっているのが分かります。ちょっとびっくりしたのは、着工から竣工までの期間が4か月だということです。これを可能としたのがプレストレスコンクリート(以下、PSコンクリートという)製の橋げたを使ったためです。ちょっと複雑な話になりますが、コンクリートは「圧縮力」には強いが、「引張力」には弱いという性格があります、そこでPSコンクリートでは、通常の鉄筋ではなく超強度鋼(PC鋼)を引っ張りあらかじめストレスを掛けた状態でコンクリートを打設します、コンクリートが硬化後、ストレスのかかったPC鋼は戻ろうとしてコンクリートに対して圧縮力を掛けます。あらかじめ緊張力(ストレス)のかかったコンクリートが出来上がります。このPSコンクリートはあらかじめ緊張力(ストレス)が発生していますので、PC線には垂直に荷重がかかってもその引張力を弱めたり制御すことができます。
 PSコンクリートは橋げた部分を工場で作成し、橋台完成後現地に運んできてクレーンで据え付けたためにわずか4か月の短期間に完成したのだと思います。
 施工会社の「九州鋼弦コンクリート」は今は社名変更をして、現在は「富士PSコンクリート」という会社になっています。
 写真を取り忘れましたが、橋の上流部分の川底には古い橋の、橋台の基礎らしきものを見ることができます。

橋梁上から見た日豊本線

 橋の下流部には先ほど分岐した日豊線の橋梁がありちょうど特急きりしまが通過中でした。 
 志布志線の今川橋りょうを渡ると線路跡の土盛が続いています、その有吉に向かって左側にもう一つの線路跡らしきものがあります、これは橋梁の架け替えをする前の線路跡だったのかもしれません。

黄金千貫の畑

 線路跡の周りは畑が続いています、昨年の秋に来たときはちょうど収穫時期でしたが白いさつまいもを霧島酒造のマークの入った大きなフレコンパックに入れていました、きっと黄金千貫という芋焼酎の原料を耕作しているのでしょう。
ほぼまっすくな線路跡が続いています。

10号線跨線橋

 しばらく畑の間を歩くと梅北川橋りょうが見えてきました遊歩道に変った時に「汽笛橋」といわれるようになったようで、欄干には蒸気機関車のシンボルマークが入っています。
 少しのぼり勾配になってきました、蒸気機関車時代はきっと萩原川橋りょう付近から、機関助手が一生懸命に投炭(とうたん : 蒸気機関車のボイラー火室(かしつ)に石炭を供給すること)して蒸気の圧力を上げたことと思われます。
  余談ですがパソコンの漢字変換では「投炭」(とうたん)も「火室」(かしつ)も変換できませんでした、もう死語になってしまったのかなぁ。

跨線橋全景

 だらだら坂を上っていくと10号線の跨線橋に差し掛かりました、今は大隅橋と言われているようですが登坂はこれからも続くようです。橋を渡りきると左手に住宅地が続いているのがよく見えます。

跨線橋からのダラダラ坂

 志布志線跡は切通の登り坂をだらだらと進んでいきます。切通が終わると道路と交差するみたいです。終戦直後などえは、石炭の質が悪かったので大変だったろうと思います。肥薩線の吉松~真幸間でも終戦直後に質の悪い石炭を焚いて列車を引いていた蒸気機関車が勾配を上り切れずにトンネル内で立ち往生して55名の復員兵が亡くなる大事故が発生したこともあるんですよ。(肥薩線列車退行事故)

今町の前(台地)

 台地のようなところに出てきました、ただひたすら畑が続きます、何もありませんの中を真っすぐに進んでいきます。踏切があった場所では、志布志線廃止前とは反対に支部長の汽車が一旦停止しなければなりません。

懐かしいホーロー看板

 ところどころに線路沿いに民家があります。納屋らしき建物には懐かしいホーロー看板がありました。この家に小さな子供がいたころには、列車に向かって手を振るかわいい姿が見られたもしれません。

踏切警報機基礎(今町手前)

 道路と線路の交差部分には、踏切警報機の基礎部部らしきものがまだ残っています。

沿線不思議な看板(今町手前)

 線路の横にはこんな看板も、これによく似た看板は以前に宮丸のガラス屋さんで見たような気がします。色々敷地内にも装飾がしています。

志布志道路によるッ路線分断1

 ここで、線路跡は途切れてしまいました。全面の草が茂っているところは志布志道路の土盛です。志布志線から離れて並行して走っている国道269号線に出て反対側に回り込んでみましょう。

素敵な線路跡

 回り込んでみると公園整備をしたときに植えたのでしょうか、並木道が続いています。まだ志布志線が走っていたころは列車限界の関係でこんなに木は茂ってなかったと思います。先に今町駅跡が見えてきました。

今町

 今町駅に到着しました、相対式2面2ホームの駅跡が残っています。駅舎はもうありません。後で調べたところでは、1963年に交換設備が撤去されて片面1ホームの駅になっていたようです。その後、1965年には無人化駅になったようです。

かわいい蒸気機関車

 このC1264機関車は1934年に北海道の長万部を振り出しに、40年間北の大地を駆け巡りましたが、1974年に小樽機関区から9日間をかけて日本列島を縦断して吉松機関区にやってきました。その後、山野線(吉松~薩摩大口)を走り続けていましたが、ディーゼル機関車に置き換わることとなり、安住の地として都城にやってきたものらしい。地元の新聞には時々国鉄のOB会や近隣の人が清掃を行たとの記事を見たことがあります。

鉄道開設80年記念

 ホームの片隅には鉄道開設80周年碑と記念植樹がありました。駅構内には児童公園と芝生広場や公衆トイレがあります。

フル装備の警報機

 SLの前の軌道部分には、踏切の警報機があるのですが、警報ランプがめったやたらな方向に付いていていったい誰に警報で注意を惹起するのでしょうか。また腕木式の信号もありましたがかなり老朽化が進んでいます。

今町時刻表

 今回の最後は廃線時の廃線時時刻表です。上下9本づつが走っています。下りの2本は宮崎行きとなっています。これは大隅半島循環線列車といった気分にさせる列車であたと思います。今町駅は行き違いもなく、かつては志布志線を走っていた急行「大隅」も通過する小さな駅であったと思いますが、就職や進学等でこの駅から故郷を旅立たれた方も多いと思います。このような思いを持つ人のためにも鉄道駅跡を残したことは幸いであったと感じます。
 いろいろな思いを胸に、または人々の思いを想像しながら廃線跡を歩くのも楽しいかもしれません。皆さん、ぜひ歩いて自分のまちを観察してはいかがですか。

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