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路上観察学会小倉支部 a File of the ROJOH KANSATSU

『第8回 マンホールサミット in 北九州市』に参加して

 報告が随分と遅くなり申し訳ありません、2018 年 11 月 3 日九州で初めてマンホールサミットがリバーウォーク北九州のエナジーコートや小倉城横の歴史の道で開催されました、当日はお天気にも恵まれて全国各地から5,000人を超えるマンホーラでにぎわいました。ここでは、福岡県下のマンホールカード化されたマンホール蓋の展示やマンホールグッズの販売が行われました。

 北九州芸術劇場会場の展示ホールでは、全国 418 枚発行されているのマンホールカードの展示が行われていました。ホールに入ると北九州市の銀河鉄道999のデザインマンホールの蓋と、マンホールの蓋の鋳型の元になる、松本 零士先生のサイン入り母型が展示していました。

100周年記念
            北九州市下水道事業100周年記念のデザインマンホール

母型
        上のマンホールの鋳型の元となる母型、下方に松本零士先生のサイン


その先には、さくら ももこ先生が生前に静岡市に寄付された静岡市のマンホールの蓋がありました。メーカーで制作中に先生がお亡くなりになり、市への寄贈は遺族で行ったそうです。メーカーの方の話では、当初、静岡市では当初、いたずら等があっていけないので市役所のホールに飾ろうとしていたようですが、先生の希望で静岡駅前に設置しているようです。

まる子マンホール

 午後から北九州芸術劇場中ホールでいよいよ「第8回マンホールサミット in 北九州」が開催されました。700席定員のホールが満員になってしまい入場できなかった方沢山もいたようです。来場者は県内が一割程度で、それ以外の九州の他県からが二割程度、九州外が七割ということでとても驚きました。

会場風景

 オープニングに国土交通省の下水道部長と北九州市の上下水道局長の特別対談から始まり、スペシャルトークとしてべルリン森鴎外記念館 キュレーターのベアー・ヴォンデさんの「マンホールとアイデンティティー日本独自の文化の魅力」のお話がありました、森 鴎外の専門が公衆衛生でベルリンやライプチヒで医学だけでなく上下水道についても学んでいたとこから話が始まり、彼、女が日本のマンホールに惹かれか写真展を開催したら話題となり、今ドイツでは日本のマンホールの蓋が話題となっているとのことでした。小倉の鴎外旧宅とは姉妹館の関係で来られたのかと思っていましたがとても興味深いお話でした。
 実は彼女とは一度ベルリンで対面したことがありびっくりしました。以前支部長がライプチヒの炭鉱を見に行って時べルリンの鴎外記念館に立ち寄った際にお世話になった方でした。

ベルリン鷗外記念館
                               ベルリン鴎外記念館


東西統一記念マンホール
                          東西ドイツ統一記念マンホール



ライプチヒ旧 東ドイツ
                        ライプチヒの東ドイツ時代のマンホール



 ココからリレートークが始まり、一番手は噂の土木応援チーム デミーとマツの「ドリームマンホール!」、土木の専門家集団のお二人が、土木的視点から下水やマンホールについてのレクチャー、平易な言葉でわかりやすく面白いお話を聞かせていただきました。
 二番手は飯田 眞三さんの「蓋の東海道五十三次、拓本の旅」は、東海道五十三次を旅してマンホールの蓋の写真ではなく拓本を取るという奇想天外な話でした。舞台いっぱいに広げられたマンホールの蓋の拓本は圧巻でした。
 三番手は、「今日から始めよう!デザインマンホールの蓋の楽しみ方 2018 版デザインマンホールの見つけ方や撮影方法などマンホーラー入門の話でした。
 四番手は緒方 絵理奈さんという北九州市上下水道局下水道計画課の若手女子職員の「飛ぼ出せ!行政マンホーラー」行政職員でもありマンホーラーでもある彼女の仕事や実際にデザインマンホールを企画できるという行政職員ならではのお話でした。
 五番手は支部長で「路上観察とマンホールの蓋」でした以下は当日使用しましたパワーポイントの画像に沿ってご報告します。


路上観察とマンホールの蓋-1

 路上観察学会小倉支部発足時に使用していた看板がドドンと大きなスクリーンに映し出されて、支部長もちょっと感動してしまいました。

路上観察とマンホールの蓋-2

 路上観察学会とはそもそも何か、そしてどの様にして発足したのか、その後の活動や著書について説明しました。また現在も、東京トマソンセンターがあることや、全国各地で現在で路上観察やそれに類する活動を行っている多くの人がいるることを説明しました。。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-3

 小倉には城下町としての古い歴史があり、またその後も商業のまちとしてそして軍都として発展したが、空襲等の戦災に遭っていないために、古いもが比較的残っています。その名小倉のまちを歩いて欲しい、面白いものや不思議だな思うものに出会って観察して欲しい、足元の歴史をちょっとでも感じて欲しいとの思いから路上観察学会 小倉支部を発足させました。
 路上観察学会の名称使用については、藤森 照信先生のの承諾をいただき、広くこの活動を知ってもらい参加を呼びかけるために、路上観察学会 小倉支部のブログを開始しました。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-4

 これまで見たこともないような不思議な古いマンホールに小倉のど真ん中で遭遇し、ブログに掲載したところマンホーラー界のレジェンド「駅からマンホール」さんからこれは「下水」の文字の中に旧小倉市の市章が入っている通称「下水囲みタイプ」の旧小倉市のマンホールの蓋ではないかと、貴重なコメントがブログに突然に送られてきました。
これを切っ掛けに旧小倉市のマンホールの蓋探しが開始するがなかなか見つからず、途方に暮れていたところ。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-5

 偶然マンホールではなかったのですが、「下水」の文字をが旧小倉市の菱型の市章を挟んでいる桝蓋を発見しこれが旧小倉市の下水度のマークであることを確認しました。


(路上)路上観察とマンホールの蓋-6

 市外からの来場者も多いようなので、その説明として北九州市は1963年に五市が合併してできた市で、旧市それぞれの市が独自に下水道事業を行っていたことや、1918年に旧若松市が九州で2番目に事業開始し、その後1925年に旧小倉市、1934年に旧八幡市、1958年に旧戸畑市、1963年に旧門司市がそれぞれ事業を開始しました。今年は旧若松市の事業開始から100年になります。
 現在でも、市内にはいくつかの旧市時代のマンホールの蓋が現役で残っていますが、これらはすべて50年以上前のものです。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-7

 旧小倉市はじめ旧五市のマンホールの蓋を探し始めました。その写真と市章を説明していきましょう。
 まず左の物件が旧門司市のマンホールの蓋です。蓋の中心には門をデザイン化した丸い縁取りがあり、旧門司市が港町であったところから真ん中に錨のマークが描かれてています。
 右の物件は、旧若松市のマンホールの蓋です。中心にカタカナで右からワカとデザイン文字が入っています、それを松葉で囲む旧若松市の市章が入っています。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-8

 左側が最後まで探し出すのに苦労した、旧小倉市のマンホールの蓋です。先ほど見ていただいた桝蓋に入っていた下水のデザイン文字にの間に菱型で小の字をデザイン化した旧小倉市の市章を挟んでいます。
 右側が旧八幡市のマンホールの蓋です。八つの日の丸の旗をデザインした旧八幡市の市章が真ん中に入っています。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-9

 最後が旧戸畑市のマンホールの蓋です。旧戸畑市の市章は戸を丸くデザインしたものですが冠の一の部分がツルハシの形になっています。これは、戸畑も若松と同様に石炭の積み出し港であったことや、筑豊御三家の一つである安川・松元家の明治鉱業
の本拠地であったことが関係しているのかもしれません。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-10

 旧五市のマンホールの蓋を緊急調査していた時期は、北九州市の50周年の時でした。旧五市を思い出す物件もだんだん少なくなってきました。旧小倉市役所は移転して、リバーウォーク北九州になりましたし、旧若松市役所や旧戸畑市役所は移転してしまいました。旧戸畑市役所は市立図書館にリノベーションし市立戸畑図書館として残っていますが、時がたつにつれて旧五市時代の物件は無くなっています。
 この旧五市のマンホールをの蓋を何とか残せないものかとこのブログで書いたり、市役所の方に相談したりしていました。清潔で快適に暮らしたいという先人たちの思いのこもった、これら旧五市のマンホールの蓋は旧五市遺産だとの思いをより強く感じました。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-11

 このブログを見た西日本新聞社の方が、訪ねてこられて北九州市市制50周年記念のコラムとして、旧五市のマンホールの蓋を取り上げたいのでどこにあるのか教えて欲しいと来られました。そこで、マンホールの蓋のある場所や、残したいという思いや、なぜ50年以上も残ったのかについてお話しました。その後、市役所の担当部局にも取材して市内面でしたが結構大きな記事で掲載されました。掲載後、記者の方がお礼に来られて、記事の評判が思いのほかよかったことや、市の担当部局でも話題になっているとのお話を伺いました。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-12
   
 その後、仕事が小倉から宮崎県都城市に移ったことで旧五市遺産のマンホールの蓋がどうなったのかすっかり忘れていました。すると「駅からマンホールさん」から北九州市下水道事業100周年記念事業としてマンホール広場が日明浄化センターの敷地内に整備され、そこに旧五市遺産のマンホールの蓋が保存されたとの連絡を受けました。
 それを聞いた時は、ホッとししてその後ジンワリと言葉では言い表せない興奮と喜びを感じました、そして炎天下の中、若松・戸畑をママチャリで走り回ってマンホールの蓋探しをやったことや、小倉北区の長浜町の路地裏で旧小倉市のマンホールの蓋を見つけて小躍りしたことを思い出しました。

(路上)路上観察とマンホールの蓋-13

 思いは通じたそして、旧五市のマンホール遺産の蓋は保存された。
 トークが終わって控室に戻ると、北九州市上下水道局の企画課長さんが訪ねてこられて、実はあの新聞記事が出た後、確かにこのままでは旧五市のマンホールの蓋は無くなってしまう、とにかく調査してみようと旧五市時代に下水道が整備された地区を区役所の人も動員して人海戦術で歩き回ってコンディションの良いマンホールの蓋を探されたそうです。管路図には、整備された時代とマンホールの位置は記入されているが、どのタイプの蓋が使用されているかは書かれていないので人海戦術しか方法がなかったそうです。
 コンデションが良いマンホールが見つかったので、この後どうするのか決めないままマンホールの交換を実施してマンホールの蓋は日明の上下水道局の倉庫に保管したそうです。
 その後、北九州市下水道事業100周年記念事業としてマンホール広場を整備することになり、倉庫に保管してあった旧五市遺産のマンホールの蓋が再び活躍場を得たとのお話を伺い、思わす課長さんとしかり握手してしました。
 本当に皆さんありがとうございました!!

浦底さん
 マンホールサミットでアシスタントを務めた「水の天使」浦底 理沙さん


 今、思い起こしてみればあの記事が掲載されてからしばらくして、小倉の長浜町と若松の栃木ビル前にあった旧市のマンホールを見に行ったら、ひまわりのマンホールに取り替えられていました。その時は驚いたのですが、あれはきっと回収したののでしょう。


『第8回 マンホールサミット in 北九州』 開催決定

 北九州の下水道の始まりは、1900年(明治33年)公布された下水道法に基づく許可を得て1918年(大正7年)に旧若松市の事業認可に始まります。着工全国で11番目、九州では初めての下水道事業でした。
その後、1925年(大正14年)に旧小倉市・1934年(昭和9年)に旧八幡市・1958年(昭和33年)に旧戸畑市・1963年(昭和38年)に旧門司市で下水道の事業認可を国より受けました。しかし、合併後1963年(昭和38年)以前には本格的な下水処理場がなく、なかなか下水道事業は進まなかったようです。合併直後、本格的な処理場として皇后崎浄化センターの稼働後本格的に下水道整備がすすめられました。
現在は、下水道普及率は99.8%となっていますが、合併して4年後の1967年(昭和42年)でも普及率は10.1%しかありませんでした。

 今年は、北九州の下水道事業開始から100周年にあたります。それを記念して『第8回 マンホールサミット in 北九州』が開催されることになりました。

北九州サミット(小)


北九州サミット裏(小)

 支部長はリレートークのゲストスピーカーの一人として「路上観察とマンホールの蓋」のお話をしていただくことになりました。ブログをお読みになっている方はご存知と思いますが、主に旧5市時代のマンホールの蓋とその後その一部が日明浄化センターに保存されることになった経緯をお話したいと思います。

 ご興味のおありの方は、ぜきご来場ください。参考までに市制50周年の時のマンホールの蓋特集の新聞記事を掲載しときます。


新聞記事

支部長機関車が再び始動

 西都城から4.3㎞離れた今町に到着しました。前回のブログででもお話ししたように。1963年に交換設備を撤去したため列車交換(列車の行き違い)が出来なくなりました。そのため普通列車しか停車しない小さなローカル線になっていました。当然、給炭・給水の設備もありません。支部長機関車も給炭と給水が必要になってきました。ところが線路跡を歩いていると、お店も自動販売機も全く見かけません。廃線跡を歩くときは熱中症予防のために、最低でも水筒と帽子は持ち歩くべきでしょう。支部長機関車は、しばらくレール跡から離れて並行して走っている国道269号線でコンビニでも探して給炭と給水をしたいと思います。では、今町駅を出発!!

上り線一里塚

 セブンイレブンがありましたここでひとまず、給炭と給水をしましょう。国道沿線にはナフコやタイヤ屋さんなどどこでも見かける郊外の沿道風景です。そこにドーンと巨木と土盛が見えます。案内がありましたので見てみると、「国指定史跡」「今町一里塚」というところらしいのです。支部長機関車が歩いている国道269号線は江戸時代は「今町街道」とよばれ、都城・末吉・松山・志布志を結ぶ街道だったそうです。昭和の初めごろは緑の松並木が続く美しい街道が光景であったそうですが、道路拡幅等で今は見る影もありません。
 この街道は江戸時代には、幕府巡検使の一行が薩摩藩から飫肥藩へ向かう通り道にもなってい居たようです。石造りの一里塚塚はいろんな所で見たことがありますが、こんな立派な一里塚は初めて見ました。
 ここから線路跡に戻ろうかと思いましたが、このまま今町街道をぶらぶら歩いて街道と志布志線との踏切跡から線路に戻りたいと思います。しばし脱線!!

国道と並行に走るサイクリング道路へ

 志布志線跡はここで269号線の東側から西側に道路を横切ります。その先も舗装された遊歩道があります。ここから先は、しばらくは269号線と並行して走ります。その先は、これまでの畑の中という感じから雑木林の中という感じです。

宮崎・鹿児島県境

 いよいよ県境です。ここからこの志布志線跡の遊歩道も鹿児島県曾於市の管理となります。この辺からだらだらとした下りが始まりました。

制御区間

 このだらだら坂のせいでしょうか、制御区間の標柱がありました。反対に上りの機関車はかなりあえぎながら登ってきたことでしょう。盆地のまちにに来る前は、盆地のまちは平らでアップダウンなんてほとんど無いと思ていますが、河岸段丘と言うそうですが結構アップダウンが激しいのにびっくりです。

踏切跡

 やはりここでも支部長機関車よりも、自動車が優先ですので踏切前で機関車は一旦停止です。この先は下りながらゆっくりと右にカーブしています。踏切を超えて切通をどんどん下ってきています。切通の上にはサンテグレという飼料工場があります。

曽於市マンホール

 線路跡なのにマンホールがあります。すでに道路扱いなのでしょう。マンホールの蓋には末吉町と合併前の町名が書かれていますので2005年の財部町・大隅町との3町合併より以前に設置されたもののようです。

鶏舎

 切通を過ぎると、左側にもう使ってないのでしょうかかなり古い鶏舎です。この先の橋を過ぎると間もなく末吉の駅です。西都城~今町の区間は登りが多かったのでかした下り坂でしたのでかなり楽でした。

広い構内
 
 小さな橋過ぎるとこれまで走ってきた単線の遊歩道から、片側1車線+歩道の一般道路に変ってしまします。まもなく末吉駅です。右手生垣の奥にナンチクの巨大な食肉処理工場があります、支部長の事務所は国道10号線のすぐ横にあるのですが、よく黒牛くんや豚さん・ニワトリさんが沢山トラックで運ばれていきます。きっとここに連れていかれているののかもしれませんね。

末吉駅

 末吉駅に到着しました、西都城駅から8.3㎞支部長機関車これが限界かもしれません。手前に置いてある赤くさび止め塗料が塗られた車輪は、気動車(ディーゼル機関車)の駆動輪だと思います。ディーゼル機関車の動力はもちろんディーゼルエンジンですが、ディーゼルエンジンで作られた動力はプロペラシャフトでこの駆動輪が付いている台車に送られます。ディーゼルエンジンの回転方向と駆動輪の回転方向が違いますので台車に取り付けた逆転機で回転方向を変えてこの車輪を動かします。

末吉鉄道記念館

 廃線前は有人駅で相対式ホーム2面2線と側線1本があり交代可能駅で急行大隅も停車していました。1971年までは貨物の取り扱いもありましたので側線は貨物用だったのかもしれません。
 廃線時は鉄筋コンクリート造だったようですが、廃線後に末吉鉄道記念館として立て替えたようです。早速中に入って見学してみましょう。

展示物

 鉄道員の制服や帽子・ヘルメット等の鉄道員が身に着けるものから、タッチングマシーン(硬券を窓口で売る場合に日付を入れる機械)・鉄道電話・列車無線などが展示されています。ただ、制服を着ているマネキンがすべて女性のマネキンなのでしぐさが何か艶めかしいのが気になる点です。メード喫茶に対抗して、かわいい女の子が、昔の食堂車を模した部屋で、旧国鉄の制服でコスプレして指差呼称で安全確認しながらお茶を運んでくる「国鉄喫茶」たあったら支部長はちょっと行ってみたい気もしますが、鉄ちゃん達には受けたりして。

吉松駅時刻表

 時の流れと言ってしまえばそれだけの話ですが、この末吉駅の時刻表にある接続列車の数を見て無残に都市間交通を切られていった歴史が垣間見られて涙が出そうでした。
 今、福岡や北九州に公共交通機関で行こうと思えば、都城北高速バス停まで行って高速バスのフェニックスを使うか、B&Sで新八代まで高速バスで行ってて九州新幹線で博多に出る、もしくは鹿児島中央まで特急きりしまで行って九州新幹線で博多、または宮崎市まで出て飛行機かJRの特急にちりんか、あとは自動車でで高速道路を利用する方法です。
 廃線時の末吉駅の志布志線廃線時の時刻表を見てみましょう、各駅での連絡列車まで書かれています。まず目につくのは日豊線の特急にちりんがの一部が西鹿児島始発であったことです。東九州軸は鹿児島本線で西九州軸は日豊本線でという政策でしたが、鹿児島本線は八代から西鹿児島までが単線区間でしたし、日豊線も大分から西鹿児島までが単線区間というネックがありました。志布志線廃止当時は、新大阪駅行きのブルートレイン「彗星」が都城駅始発でまだ走っていたようです。西鹿児島駅始発の「にちりん」も健在ですし、吉都線・肥薩線・鹿児島本線経由の急行「えびの」も活躍していたようです。今は、夜行列車はほとんどありませんが、急行「日南」も支部長の住んでいたまちと結んでいたんですね。今もしあれば絶対に乗っていたと思います。

手動転轍機

 記念館はこれくらいにして、外の方を観察してみましょう。手動転轍機が展示されています。駅の構内のポイント使われていたのでしょうか。この他には、踏切の警報機なんかが展示されて得います。なんだか不思議なものがこの奥にありました。

手洗い場

 普通の手洗い場のように見えますが、これがとんでもない代物なんですよ。何がとんでもないかというとこの反対側に回ると理解できます。

手洗い場2

 これはどう見ても昔の男子用の小便用トイレの形に、見えるのは、支部長だけでしょうか。ちゃんと蛇口が2か所が上部についているのが写真で確認できると思います、とても不思議です。しかし何を洗うために作ったのでしょうか、足洗い場にしては蛇口が上すぎるし、ゴボウでも洗うのでしょうか❓

行幸記念碑

 記念館前には天皇陛下の昭和の行幸の碑があります。昭和天皇は、戦後ももなく「人間宣言」をされその後、昭和21年から29年まで8年をかけて、全国の戦災地や工場・炭鉱・学校・農家などを訪ねる、ご行幸をされました、ここ末吉にも昭和24年に行幸されて様です。興味を引かれたのは、片倉製糸の鹿児島事業所に行かれたことです。片倉製糸といえば、世界文化遺産になった富岡製糸場が有名ですが、ここにその事業所があったことは驚きです。

待合室模型

 プラットホームは撤去されているようですが、待合室を模した東屋があります。バス停は、別の所にありますから、あまり人が来ないのでしょうか、草ぼうぼうの状態です。

待合室の看板

 写真では醜いのですが、「都城・鹿児島行きのりば」となっています。以前は駅舎側が1番線ホームで、志布志行き下り線、そしてこの写真の場所が2番線上り線ホームだったのでしょう。この待合室の骨組みは、古レールを再利用しています。古い駅では、ホームの屋根の骨組みや柵に古レールの再利用が行われています。古レール好きにとってはここから珍しいレールを探すのは大きな楽しみです。さっそく観察してみましょう。

古レール

 在りました、屋根の骨組みの1本に珍しいレールがあしました。「KRUPP 1902  XⅡ KTK」の刻印の古レールです。このレールはドイツのエッセン州にあったクルップ製鉄所で1902年に製造された60ポンドレールで、当時の九州鉄道株式会社が輸入したものです。
 このレールを輸入した、九州鉄道株式会社は、1887年(明治20年)に九州初の鉄道会社として設立されました。1989年(明治22年)に九州初の鉄道として博多 ~ 千歳川仮停車場(筑後川の博多側手前)を開通させ、その後1891年(明治24年)4月に博多 ~ 門司駅(現在の門司港駅)まで東進、7月には熊本まで南進その後1896年に八代まで延伸させ現在の鹿児島本線の基礎を作りました。
 また、現在の長崎本線・日豊線・筑豊線のルーツも九州鉄道によるもので、現在ある九州の鉄道路線の基盤を築いた会社でした。しかし、1906年に(明治39年)に公布された鉄道国有法により翌1907年(明治40年)に国に買収され国有化しました。
 一方、志布志線は1923年(大正23年)に鉄道省によって、都城 ~ 末吉間を志布志線として開業した。その後、1925年(大正14年)にかけて末吉 ~ 大隅松山・大隅松山 ~ 志布志と延伸を続け志布志線が完成した。1932年(昭和7年)に都城 ~西都城間が日豊線に編入され、西都城 ~ 志布志間が志布志線となった。
 では、鉄道省が建設した志布志線になぜ九州鉄道株式会社が輸入したレールが末吉駅にあるのでしょうか?レールしばしば転用されることがあります。現在では鹿児島本線等の列車の運行本数が多い路線や貨物列車などの重量物が走ること路線では50kg/m・60kg/mのレールが使われていますが、そのレールでも列車の運行本数が少ない路線では十分使用可能なので、検査をして再使用することがあります。志布志線が出来た当時の筑豊地区では石炭の増炭が著しかったので石炭列車の運行本数が増えてて来たために、30kg./mから37kg/mや50kg/mに変えた時に30㎏/mが余ってきたのかもしれません。また、鹿児島本線の小倉 ~ 大蔵 ~ 黒崎間は、九州鉄道が敷設した時は、現在の路線より少し南側を走っていました。しかしその後、1908年(明治41年)に現在の鹿児島線のルートに複線化を行い小倉 ~ 戸畑 ~ 八幡 ~ 黒崎を本線に編入し、小倉 ~ 大蔵 ~ 黒崎間は大蔵線はは本線から切り離された。また、並行して九州電気軌道(のちの西鉄北九州線、1992年(平成4年)廃止)が開通したために大蔵線は1911年(明治44年)僅か20年で廃止になりました。もしかしたらここのレールを転用したのかもしれません。
 何故そう思うかと言われると理由ははっきりしませんが、大蔵線は今は市道になっていますが支部長が生まれたところのすぐ近くでいつも遊んでいたところだからです。もしそうだったらロマンがあるなあと思ったからです。
 でも何時か、きれいにしてもらって記念館の室内に入れて欲しいものです。

支部長、汽車になる 志布志線(西都城 ~ 今町 4.3㎞)

  (^^♪  汽車 汽車 シュポ シュポ  ♫
 小倉にいた時も高浜から小倉港までの引き込線や、日豊本線から旧小倉陸軍工廠に引き込み線「原町緑道」などを汽車ごっこしながら歩いたいたものです。あの頃つるんでいたN大学のY先生も廃線フェチだったなぁ~。
 鉄道跡はカーブや勾配などが道路と違いとても興味深い物件です。今回は西都城駅から何度かに分けて志布志線の跡を観察してみようと思います。まずは今回は、西都城から今町まで観察をすることにしました。

路線図

 この路線図でもわかるように志布志は現在、日南線の終着点でありますが、1987年に志布志線・大隅線が廃止されるまでは、3つの路線が交わる鉄道の要衝でもありました。しかし、この2線は乗降客数が2,000人/日未満の路線であったため第2次特定交通路線に指定され大隅線は1987年3月14日、その2週間後の28日に志布志線は廃止されてしまいました。
 この年の4月1日にJRが発足し日本国有鉄道の分割民営化が行われますので、志布志線が国鉄最後の廃止路線かと思いましたが、残念ながら志布志線廃止の2日後の3月30日廃止の羽幌線(北海道)が国鉄時代最後の廃止路線となりました。
志布志線の終着点である、志布志は港町でもあり、江戸時代から島津藩の米の積出港として利用され、また奄美・琉球からの砂糖や、清から琉球を経由した密輸入品の受け入れ港として大いに栄えていましたが、明治以降は大型船が岸壁に直接着岸できないことから寂れていきました。しかし、明治後期から港湾改修が実施されと共に大隅線・志布志線・日南線が開通し、志布志地区は大隅半島地区の交通の要衝として栄えてきました。

西都城駅

 早速、起点駅の西都城駅から観察を始めましょう。さあホームに上って観察を始めましょう、駅の構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線の高架駅で駅舎は高架下にあります。以前は、キオスク・待合室・立ち食いうどん店があったそうですが現在はありません。駅員さんも6:30~20:00までしか勤務していなくそれ以外の時間は無人駅扱いです。駅舎の入り口の扉の鍵の開け閉めは、隣接する宮崎交通のバス営業所に委託しているそうです。
 まずは、志布志線のホームと思われる1番線ホームに上がってみました。

一番線ホーム

 ホームの南端に行ってみました、待避線の跡のようなポイントや、何となく日豊線と志布志線の分岐が感じさせられます。ちょっと不思議だったのは、ホームの端の部分まではスラブ軌道(コンクリートの床の上に軌道スラブという工場製作のPC版を置いて線路を敷設する軌道)ですが、それから先はバラスト軌道(路盤の上に砕石や砂利などのバラストを敷き、バラストの上部に枕木を並べてその上にレールを敷設する軌道)になっています。
 これは高架の終点に近いのと、線路の分岐が多くなるので調整のしやすいバラスト軌道にしたのかもしれません。
 また、1番ホームの窓からはこんなものが見えます。

旧市民会館


 駅の東側にある旧都城市民会館がみることができます。この建物は「メタボリズム」の先導者の一人である菊竹清訓氏の設計で1966年(昭和41年)に竣工した建物です。支部長は勉強不足でこの建物のことを知ったのは、2005年に日経アーキテクチャーで連載が始まった「昭和のモダン建築巡礼」というコナーでした。この第1回目の連載がこの建物だったのです、このコーなーは建築ライターの磯達雄氏が一般の人にも分かる言葉で、その魅力とウンチク、関連する雑学と宮沢洋氏のイラストでとても面白い企画でした。現在、「昭和モダン建築巡礼」(東日本編)(西日本編)で再編集されて出版されていますので一度ご覧にいただければ幸いです。磯達雄氏はこの建物に「アギラ」と命名したように記憶しています。「アギラ」はウルトラセブンに出てくる怪獣で、頭の後ろの方が確かにここの屋根に似ているような気もしますが。余談です「アギラ」の名前は円谷プロの円谷英二氏の三男の粲(あきら 元円谷プロ副社長)氏から採ったと言われています。閑話休題!

石倉

 石倉も見えます、駅の近くにはこのほかにも米穀倉庫や飼料倉庫が数棟かあります。これらは貨物取り扱いがあった時代の産物かもしれません、貨物取り扱いも廃線に先立ち1976年に廃止されてしまいました。

二番線ホーム

 1番線ホームからよくわからなかったので、今度は2番線ホームから志布志線の分岐地点を見てみました。今度ははっきりと分岐地点と、待避線跡をよく見ることが出来ました。一番左側の線の先は何かでふさいでいるようです。これから早速、高架の分岐部分まで行ってみましょう。

高架分岐 2

 奥の黒い家の手前で志布志線の高架はプッツリと切れています。

高架切れ目

  先ほどの黒い家の方から高架跡を見てみました。JR九州発足時に高架跡は国鉄清算国鉄清算事業団に移して、住宅地として分譲したのでしょう。ここから先の高架は完成後8年足らずで解体してしまったのでしょうか。高架の跡は全く見ることはできません。
高架後の先端はコンクリートブロックで閉塞されているようです。黒い家からの高架側の眺望はすごく悪いかもしれませんね。

市道交差部

 高架部分の最終の地点です、ここからは萩原川の橋梁へ向かうために市道と交差します。市道の両側の擁壁に一部出っ張りがあります。右に民家側の出っ張り部部には最後の高架の橋脚があったのではないかと思います。左の萩原川の堤防部分の出っ張りは、たぶん橋台(アバット)があったのかもしれません。

橋梁 1

 右岸側の堤頂部から末吉に向かって、6,100m区間は「鉄道公園」「志布志線ウエルネスロード」(自転車・歩行者専用道路)として整備されています)。
 橋の上に敷設されていたレールもすっかり撤去され、アスファルト舗装の道路になっています。鉄道が走っていた時代には、もちろん手摺もなかったでしょうし、枕木の間に足場板程度は付いていたかもしれませんが、橋の上からは川面が見える状態だったことと思います。
 橋は公園に変ったときに高千穂橋と名付けられたようです。

橋梁銘板

 橋梁の銘板が見つかりましたので観察してみましょう。橋の名称は「萩原川橋りょう」、設計者「鹿児島鉄道管理局」、施工者「九州鋼弦コンクリート」、着工昭和34年11に1日、竣工昭和35年2月29日となっているのが分かります。ちょっとびっくりしたのは、着工から竣工までの期間が4か月だということです。これを可能としたのがプレストレスコンクリート(以下、PSコンクリートという)製の橋げたを使ったためです。ちょっと複雑な話になりますが、コンクリートは「圧縮力」には強いが、「引張力」には弱いという性格があります、そこでPSコンクリートでは、通常の鉄筋ではなく超強度鋼(PC鋼)を引っ張りあらかじめストレスを掛けた状態でコンクリートを打設します、コンクリートが硬化後、ストレスのかかったPC鋼は戻ろうとしてコンクリートに対して圧縮力を掛けます。あらかじめ緊張力(ストレス)のかかったコンクリートが出来上がります。このPSコンクリートはあらかじめ緊張力(ストレス)が発生していますので、PC線には垂直に荷重がかかってもその引張力を弱めたり制御すことができます。
 PSコンクリートは橋げた部分を工場で作成し、橋台完成後現地に運んできてクレーンで据え付けたためにわずか4か月の短期間に完成したのだと思います。
 施工会社の「九州鋼弦コンクリート」は今は社名変更をして、現在は「富士PSコンクリート」という会社になっています。
 写真を取り忘れましたが、橋の上流部分の川底には古い橋の、橋台の基礎らしきものを見ることができます。

橋梁上から見た日豊本線

 橋の下流部には先ほど分岐した日豊線の橋梁がありちょうど特急きりしまが通過中でした。 
 志布志線の今川橋りょうを渡ると線路跡の土盛が続いています、その有吉に向かって左側にもう一つの線路跡らしきものがあります、これは橋梁の架け替えをする前の線路跡だったのかもしれません。

黄金千貫の畑

 線路跡の周りは畑が続いています、昨年の秋に来たときはちょうど収穫時期でしたが白いさつまいもを霧島酒造のマークの入った大きなフレコンパックに入れていました、きっと黄金千貫という芋焼酎の原料を耕作しているのでしょう。
ほぼまっすくな線路跡が続いています。

10号線跨線橋

 しばらく畑の間を歩くと梅北川橋りょうが見えてきました遊歩道に変った時に「汽笛橋」といわれるようになったようで、欄干には蒸気機関車のシンボルマークが入っています。
 少しのぼり勾配になってきました、蒸気機関車時代はきっと萩原川橋りょう付近から、機関助手が一生懸命に投炭(とうたん : 蒸気機関車のボイラー火室(かしつ)に石炭を供給すること)して蒸気の圧力を上げたことと思われます。
  余談ですがパソコンの漢字変換では「投炭」(とうたん)も「火室」(かしつ)も変換できませんでした、もう死語になってしまったのかなぁ。

跨線橋全景

 だらだら坂を上っていくと10号線の跨線橋に差し掛かりました、今は大隅橋と言われているようですが登坂はこれからも続くようです。橋を渡りきると左手に住宅地が続いているのがよく見えます。

跨線橋からのダラダラ坂

 志布志線跡は切通の登り坂をだらだらと進んでいきます。切通が終わると道路と交差するみたいです。終戦直後などえは、石炭の質が悪かったので大変だったろうと思います。肥薩線の吉松~真幸間でも終戦直後に質の悪い石炭を焚いて列車を引いていた蒸気機関車が勾配を上り切れずにトンネル内で立ち往生して55名の復員兵が亡くなる大事故が発生したこともあるんですよ。(肥薩線列車退行事故)

今町の前(台地)

 台地のようなところに出てきました、ただひたすら畑が続きます、何もありませんの中を真っすぐに進んでいきます。踏切があった場所では、志布志線廃止前とは反対に支部長の汽車が一旦停止しなければなりません。

懐かしいホーロー看板

 ところどころに線路沿いに民家があります。納屋らしき建物には懐かしいホーロー看板がありました。この家に小さな子供がいたころには、列車に向かって手を振るかわいい姿が見られたもしれません。

踏切警報機基礎(今町手前)

 道路と線路の交差部分には、踏切警報機の基礎部部らしきものがまだ残っています。

沿線不思議な看板(今町手前)

 線路の横にはこんな看板も、これによく似た看板は以前に宮丸のガラス屋さんで見たような気がします。色々敷地内にも装飾がしています。

志布志道路によるッ路線分断1

 ここで、線路跡は途切れてしまいました。全面の草が茂っているところは志布志道路の土盛です。志布志線から離れて並行して走っている国道269号線に出て反対側に回り込んでみましょう。

素敵な線路跡

 回り込んでみると公園整備をしたときに植えたのでしょうか、並木道が続いています。まだ志布志線が走っていたころは列車限界の関係でこんなに木は茂ってなかったと思います。先に今町駅跡が見えてきました。

今町

 今町駅に到着しました、相対式2面2ホームの駅跡が残っています。駅舎はもうありません。後で調べたところでは、1963年に交換設備が撤去されて片面1ホームの駅になっていたようです。その後、1965年には無人化駅になったようです。

かわいい蒸気機関車

 このC1264機関車は1934年に北海道の長万部を振り出しに、40年間北の大地を駆け巡りましたが、1974年に小樽機関区から9日間をかけて日本列島を縦断して吉松機関区にやってきました。その後、山野線(吉松~薩摩大口)を走り続けていましたが、ディーゼル機関車に置き換わることとなり、安住の地として都城にやってきたものらしい。地元の新聞には時々国鉄のOB会や近隣の人が清掃を行たとの記事を見たことがあります。

鉄道開設80年記念

 ホームの片隅には鉄道開設80周年碑と記念植樹がありました。駅構内には児童公園と芝生広場や公衆トイレがあります。

フル装備の警報機

 SLの前の軌道部分には、踏切の警報機があるのですが、警報ランプがめったやたらな方向に付いていていったい誰に警報で注意を惹起するのでしょうか。また腕木式の信号もありましたがかなり老朽化が進んでいます。

今町時刻表

 今回の最後は廃線時の廃線時時刻表です。上下9本づつが走っています。下りの2本は宮崎行きとなっています。これは大隅半島循環線列車といった気分にさせる列車であたと思います。今町駅は行き違いもなく、かつては志布志線を走っていた急行「大隅」も通過する小さな駅であったと思いますが、就職や進学等でこの駅から故郷を旅立たれた方も多いと思います。このような思いを持つ人のためにも鉄道駅跡を残したことは幸いであったと感じます。
 いろいろな思いを胸に、または人々の思いを想像しながら廃線跡を歩くのも楽しいかもしれません。皆さん、ぜひ歩いて自分のまちを観察してはいかがですか。

盆地のまちに職人魂を見た

 昨年、秋に西都城駅の改修工事も終わり見違えるようにきれいになりました。以前は壁が汚れてしまってグレー、一色でしたが白と黒に塗ら分けて、駅名と都城島津家の家紋〇に十の字が金色でくっきりと描かれて素敵な駅に大変身しました。また、この駅の1番線ホームからは旧都城市民会館を望むことができます。

西都城駅

 昭和54年に都城の市街地区間が高架化されて現在は高架駅になっています。昭和62年の志布志線の廃止までは、日豊線と志布志線の接続駅でしたので大隅半島への入り口として賑わいがあったみたいです。
 支部長の住んでいるまちは海のない盆地のまちなので、昔は志布志線を利用して届く海産物はとても大切な存在でした。お年寄りの話を聞くと、新鮮な魚を携え、市営市場やリヤカーで魚を売っていた様子を懐かしそうに話をしていただいたこともありました。
 現在も特急停車駅ですが、残念ながら乗降客数は400人くらいだそうです。ですから、駅員さんも午前6:30~午後8:00までしかいません、それ以外は無人駅になってしまいます。

動輪

 駅前広場には、昭和48年に開催さた宮崎植樹祭に際して、昭和天皇のお召列車を務めた蒸気機関車C57117(通称 シゴナナ)の動輪とプレートが記念として飾られています。

銘板

 今回の物件は、この動輪ではありませんこの駅前広場に面した建物にあるのです。窓などにカッティングシートであるものを除いて壁に文字やマークを入れる場合は、板金加工やアクリル板で文字を浮かせる場合が大半ですよね、西都城駅の駅名看板を見てみましょう。

西都城駅看板

 ご覧いただいた通り文字と、都城島津家の家紋を立体的に加工されていることが分かりますよね。では本日の物件ですが、この立体的な加工が、板金やアクリル板ではないのです。早速見てみましょう。

楠原商店全景

 楠原商店さんという元衣料雑貨の問屋さんだったところです。今はご商売はやられていないようですが倉庫として使われているようです。西都城駅が大隅半島の入り口と先ほども紹介しましたが、駅周辺には今でも衣料品の問屋さんが数件残っています。
本題は、壁に取り付けている看板ですが、店名とお店のシンボルマークらしきものが青と赤で立体的に描かれています。しかし、他所で見られるような板金&塗装やカラーのアクリル板とは質感が違っています。もう少し近づいてみてみましょう。

屋号

 赤いマークを拡大してみると、ちいさな赤い長四角のピースの集合体でできています。ちいさな赤い長四角のピースは1㎝×2㎝程度のタイルのようです。その周りも白い目地できれいに仕上げています。この部分のタイルだけでもどれくらい使ったのでしょうか。
松の字の周りの〇の部分もよく出来ていますし。角の部分や字が交わる部分もタイルを短く切ったり、角度を合わせて切ったり素晴らしい作品です。特に丸の部分は内周と外周では差があるので大変だったろうと思います

屋号拡大

 文字や丸の部分お端を見てください角度がついているのです。そこにも丁寧にタイルが張られています。看板屋さんが作ったとは思われません、たぶん左官職人が篭手絵(こてえ)の要領で下地を作って色を付けるためにタイルを張ったのではないのかと考えます。素晴らしき職人魂に感服です。ぜひいつまでも残していただきたいものです。

楠原商店西側

 この写真では、既に電話番号と思われる部分の一部がすでに無くなっているようですが、まだまだなかなかの逸品です。都城西駅の駅前広場に駅舎を背にして立つと左手に見えますので、お時間があったら是非一度、見ていただけたら幸いです。



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